#004 電車で巡る 落語スポット!(その5)
いよいよ品川へ | |
ここからは一足跳びに秋葉原から品川を目指します。 ご存知品川は日本橋を発って、東海道最初の宿場町で、日本橋からは二里。 ただ、今のJRや京浜急行の品川駅があるところは港区で、実際の宿場町だったかつての品川は京浜急行の駅で言うと、北品川〜青物横丁界隈までとなります。 「品川駅の南側にありながら、なんで北品川という駅名か?」という謎の答はこれです。 北品川の方が正しいです。 さて、JR品川駅を高輪口から出て、目の前の第一京浜(国道15号)を南に歩いていきます。 「品川心中」の後半で生き延びた金蔵が犬に吠え立てられながら親分のところへ歩いて行くのがこの道になります。 これを私たちは逆に歩いています。 第一京浜から旧東海道に入るには八ツ山橋を越えます。 下にはJRの電車が、目の前には京浜急行の電車が通る、鉄道ファンには絶好のポイントです。 最初に公開された「ゴジラ」が登場したのもこの八ツ山橋でした。 旧東海道は今では道幅約5メートル、一歩通行の小さな商店街になっています。 ![]() 厳密に言うと、宿場町としての品川宿は3つのエリアに別れていて、北の方から、「歩行新宿(かちしんしゅく)」、「北品川宿」、「南品川宿」となります。 かと言って、京浜急行の北品川駅付近がかつての北品川宿かというとそうではなく、このあたりからしばらくは「歩行新宿」で、実際の北品川宿はもっと南になります。 品川宿には街道沿いに、当時約180軒もの旅籠があったそうです。 浮世絵によると街道のすぐ裏っ手はもう海だったようです。 落語としては「品川心中」、「居残り佐平次」の舞台になっていて、吉原の「北」に対して、「南」と呼ばれたナンバー2の遊び場でした。 吉原が幕府公認の廓だったのに対して、品川をはじめとした宿場町の女郎というのは私娼となります。 公にはご法度ですから、「飯盛り女」などとカムフラージュして営業をしていたようです。 もちろん、バレバレですけど。 今、当時を偲ぶような看板や石碑といった記録等はほとんど残っていません。 東海道という当時メインの街道がこんな感じの商店街になっているとは、やや意外な感じで、教えてもらわないと気がつかない人も多いのではないでしょうか? そんな中で立て札が出ているものの1つが、土蔵作りで「土蔵相模」と呼ばれていた「相模屋」という宿屋の跡です。 外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったので「土蔵相模」と呼ばれていたようです。 英国公使館の焼き討ち事件の計画が話し合われたり、桜田門外の変を起こした水戸藩士が宿泊した場所として、1つの歴史の舞台となりました。 今ではマンションとなって、1階はコンビニです。 ![]() かろうじて立て札により、この場所であることが分かります。 フランキー堺が主演した、映画「幕末太陽傳」の舞台がこの相模屋です。 当時の女郎屋や旅籠の構造や様子を知るには良い映画だと思います。 ちなみに、この映画は「品川心中」と「居残り佐平次」をモチーフに、前述の英国公使館焼き討ち事件を扱っています。 旅籠の現代版というべきか、「ゲストハウス 品川宿」という宿が相模屋のちょっと先にあります。 名前からして、外国人向けなのでしょうか?。 | |
いよいよゴールの地へ | |
さらに歩みを進めると、公園が現れますが、ここが本陣跡として立て札がありました。![]() そしてさらに進み、山手通りを越えた先に目黒川が流れていて、そこには「品川橋」という橋が掛かっています。 ![]() ここがかつての北品川宿と南品川宿の境となっていました。 このため、この橋は「境橋」とも呼ばれていました。 今回の私たちの小さな旅はここが終着ポイントです。 ![]() 今来た道を少し折り返し、新馬場の駅から京急線の赤い電車に乗って、品川駅まで戻りました。 途中、食事や休憩を入れながら、約6時間の小さな旅。 京浜東北線のこれだけのエリアにもいろいろな落語の舞台がありました。 もしや皆さんが日頃通過しているだけの駅や路線にも、その舞台があるかもしれません。 また今度機会がありましたら、新たな小さな旅を考えてみたいと思います。 「ところでこの企画シリーズ化ですかね??」とスタッフに聞いてみたものの、未定のようです。 【ここまでのルート・品川】クリックで拡大↓![]() (c)Google |
■今回の調査のまとめ
・落語の舞台となった痕跡を示すものはほとんど無かった |
来るべき「調査報告会=落語会」では、駒次団員が今回取り上げた噺の中から一席を口演する予定です。
ご期待ください。